カテゴリ
全体 サヤツキ(月曜日) 加湿器(水曜日) わんたん(金曜日) 増刊号・X ひみつ地底人(増刊号) スヨイル(増刊号) ライター紹介 ビビエス 業務連絡 ↓---Archives---↓ 斉 藤の金曜日 スヨイルの水曜日 のぶおの木曜日 ±の土曜日 コエンザイムの火曜日 兄海(・・・) 黒幕ちゃん 検索
フォロー中のブログ
毎日が送りバント マスリラの絵日記 ほれみたことか 幻想と日常 ~La Fa... カツオくんは永遠の小学生... Jub Up Family 百花繚乱「ぼたんの屋敷」 coolys creek... 猫の毛玉 さくさく。 くま夫婦 by中央ヤンボル 養ってください 続・平和な日記 ばれたら妻に殺されるblog。 宇宙のどこかの片隅で。 おなかがゆるくなる
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ハイ、皆さんこんにちは。 今回のテーマは【まわしもの】らしいですよ。 「まわしもの」と言えば一般に敵方から送り込まれた人間の事を指しますが、お相撲さんのこととも取れますし、(そこはかとなく何かを)回す物という意味にも取れます。 全く持って、日本語の曖昧さというのは底知れないですね。 滅んだ方がいいかもしれませんね、日本。 そんなわけで「どのまわしものをテーマにして書こうかなぁ」と考えながら 【まわしもの】 の一文をじっくり見ているうちに、なんだか不思議な感覚が僕を襲いました。 まわしもの ひともじかわって たわしもの たわしもの!これは凄い発見でした。ちょっとした違いで「まわしもの」が「たわしもの」になる。僕はここに、大いなる運命の女神のいたずらを感じずにはいられません。 「たわしもの」をご存じない方も多いと思いますので、説明させていただきますね。「たわしもの」は「田和氏者」と書き、安土桃山時代から江戸時代にかけて真田昌幸・信繁親子に仕え、獅子奮迅の活躍をなした田和氏の血を受け継ぐ一族のことを指します。 真田信繁は「真田幸村」と言った方がおそらく通りがいいでしょう。大阪夏の陣において豊臣方につき、徳川家康の本陣を後一歩と言うところまで脅かした稀代の名匠です。講談や小説などでは「真田十勇士」と呼ばれる十人の勇士を引き連れて活躍しますが、この「真田十勇士」の存在はフィクションと言われています。 しかし、火のないところに煙は立ちません。彼らにはモデルがいました。それが田和一族です。 彼らは全員が優れた武勇の持ち主でした。それもそのはず、全員育った環境が尋常ではないのです。まだ田和氏が武田氏家臣だった頃、田和村定(?~1582)と息子の村長(?~1598)との間でこのような会話が(僕の想像では)なされました。 「なんかさ、最強とか目指したくね?」 「は……?最強ですか」 「強いって超ロマンじゃん。俺、目指すよ。最強の一族目指すよ」 「しかし、具体的にどうすれば…」 「だからさ、もうすぐ孫も生まれそうな気配だし、生まれた時から鍛えればすっげー強くなりそうじゃん。つーか、もう、戦闘のこと以外何一つ教えなくていいから」 「す、スパルタすぎやしませんか…?」 「いいよ、それで。ていうか、もう山で育てよう。成人するまで山で育てよう。武芸教えるやつだけつけてさ」 「えー」 「なに?逆らうの?わしに逆らっちゃうの?」 「わ、わかりました…」 正気の沙汰ではない経緯で育てられた村定の孫は、見事な殺人マシーンへと育ちました。その後も「産まれたらとりあえず山送り」の精神で育てられた田和一族は、どこからどう見ても純然たる戦闘のプロフェッショナルへとなっていったのです。 戦闘民族・田和氏は武田氏の滅亡後、真田氏に仕えます。関ヶ原の合戦では真田昌幸・信繁親子と共に西軍につき、関ヶ原に向かって中山道を進軍してくる徳川秀忠の軍を迎撃しました。「第二次上田合戦」です。 兵力は真田軍の2000に対して、秀忠軍は3万8000。冗談みたいな戦力差の中、田和氏一族は奇襲部隊を率いて活躍します。真田昌幸の計略も図に当たり、真田軍は大勝。秀忠は真田軍を無視して関ヶ原に向かう方策を採りますが、この足止めが響き、結局秀忠軍が関ヶ原に到着したのは決戦が終わった4日後でした。 しかし、肝心の関ヶ原本戦は西軍の敗北で決着してしまいました。田和氏がっかりです。彼らが再びその武勇を振るうには、十数年後の大阪の陣まで待たなければなりませんでした。 基本的に化け物ぞろいの田和一族ですが、中でも田和村重(?~1615)にはとんでもない逸話が残っています。 ある日、とっとことっとこと散歩にいそしんでいた田和村重。すると、なにやら周りが騒がしい。通りがかりの町民に聞いてみました。 「なにやら騒がしいが、なにかあったのか」 「不逞の輩が茶屋の娘を人質にとって、立てこもっているのです」 「むむ、それはけしからん。私が何とかしよう」 「しかし、近付くと人質を殺すと言っております」 「近付かなければ良いのだな?」 現場にたどり着くと、茶屋の入り口付近で娘に刃物を突きつけて何やら喚いている男が一人。野次馬の最前列にたどり着いた村重は、道に落ちていた小石を拾い、事も無げにひょいと投げました。すると、男の頭が爆裂。事件はめでたく解決したと言うことです。 いや、これは流石にただの伝説だと思いますけど。 彼らの最大の見せ場はやはり大阪夏の陣。真田信繁の呼びかけに応じて大阪城に入った彼らは、信繁指揮のもと僅かな兵で家康の本陣にまで攻め込み、家康に「ヤバイもう切腹するしかないヤバイ」と弱音を吐かせるほどの戦いを見せます。 しかし、最終的には数で勝る徳川軍に押し切られ、真田信繁は討ち死に。田和氏の面々も、村重をはじめその多くが命を失いました。 彼らの一部は野に下り、脈々とその系図を受け継がせてきます。江戸時代後期には再び「田和氏者」と呼ばれる彼らの血統にスポットが当たるのですが、長くなりましたのでこの話はまたの機会に。 以上、今回は【田和氏者】に関してのお話でした。 あれ? 次はわんたんさん。 次回のテーマは【田和氏者~江戸時代後期偏~】だよ!
by wacky_racers
| 2008-02-06 18:42
| 加湿器(水曜日)
|
ファン申請 |
||